「何もしない」という愛し方

こんにちは、モモです。(@_momo.healing_)

最近、夫のトンボとの日常のやりとりを通して、

自分の中にあった『愛すること』について、思いがけない気づきがありました。

きっかけは、週末のごはんのこと。

我が家では、土日の昼ごはんはトンボが担当してくれています。

でも、彼が仕事で疲れていると、

「今日は作るのめんどくさいな」
「外食しようよ。お金はあるから大丈夫」

となることがあるんですね。

それを見るたび、私はなんだか寂しさを感じていたんです。

大切にされているのに、どうして寂しいんだろう

もちろん、「トンボに愛されていない!」とか思っていません。

むしろ逆で、溺愛されているのも、一生懸命支えてくれているのも分かっています。

だからこそ、「なんで私はこんなことで寂しいんだろう」と戸惑いました。

こんなに大切にしてもらっているのに、何を求めているんだろうって、そんな自分が嫌だったんです。

理由を考えてみると、私は「料理をもっと作ってほしい」わけじゃなかった。

私は、お金で解決できることでも「自分のために時間や手間を使ってくれること」に、愛や大切にされている実感を得ていたんだと思います。

一方で、トンボにしてみれば
「自分が働いたお金で、私を楽にさせてあげること」が、ひとつの愛情表現でした。

「モモちゃんに負担をかけたくない(自分が作れないからって、モモちゃんに作らせたくない)」という彼の優しさ。

ただ、お互いの『愛情表現のカタチ』が違っていただけだったんですよね。

「愛することは、与えること」だと思っていた

ここで、私が昔から抱いていた『愛し方の癖』に気づきました。

私はものすごく『与えること』に偏っていたんです。

私自身、料理が大好きなわけではありません。

面倒な日も疲れている日もあります。

それでも「トンボが喜ぶなら」と、仕事中も頭の片隅で夕飯のことを考えている。

私にとって「相手のために時間や手間を使うこと」は、とても自然な愛し方でした。

だからこそ、無意識に

  • 愛することは、与えること
  • 大切にすることは、何かをしてあげること

と思い込んでいたのかもしれません。

受け取ることも、愛の循環

でも本当は、

「私も手をかけてほしい」
「私のために何かしてほしい」

という気持ちが自分の中にありました。

そう思うことにどこか罪悪感があったけれど、「愛されている」と「もっと受け取りたい」は、両立していいんですよね。

それに、相手の愛情を『受け取る』ことも、愛を与えることなのかもしれないと気づきました。

例えば、

トンボが「片づけ全部やるよ、休んでて」と言ってくれたとき。

私は「いや、私もやらなきゃ」と無理をして動いていました。

任せてソファでゴロゴロしていると、申し訳ない気持ちでいっぱい😩

でも、そこで「ありがとう」と素直に受け取ることは、
彼の「大切にしたい」という愛情を受け取ることでもあるんですよね。

与えることと受け取ること。

それは反対側にあるのではなく、お互いに行き交う『愛の循環』なんだと思えるようになりました。

何もしなくても、すでに愛の中にいる

今は、

  • 何もしない私
  • 誰かを満足させるところまで責任を持たない私

そんな練習をしています。

……正直、

めちゃくちゃ居心地が悪いです(笑)

でも、その居心地悪さの先に、今まで感じたことのない感覚がありました。

「私は、何かをしてあげなくても大切にされていい」ということです。

そもそも、愛は何かをしたから発生するものでも、何かをしてもらったから生まれるものでもない。

のかもしれない。

ソファでゴロゴロしながら、「本当にこれでいいのかな」とソワソワしてしまうけれど。

少しずつ。

何もしなくても、すでに愛し、愛されている。

そんな感覚を、ゆっくり体に覚えさせていこうと思います。

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この記事を書いた人

心のこと、人間のこと、見えない世界を研究するのがライフワーク。
「自然体で自分らしく生きるとは何か」というテーマで日々実験中。

くまのプーさん、ジブリ、カフェ、開放感のある静かな場所が好き。
ゆるグルテンフリー。ペスカタリアン。
埼玉生まれ埼玉育ち